川内倫子展「照度 あめつち 影を見る」(日本語)

Added on by Hou penghui.

 川内倫子が2012年に東京都写真美術館で大規模の個展「 照度 あめつち 影を見る」を開催した。以下の文章で展覧会の内容と構成について分析する。

白色廊下

  以前筆者は文章で述べたことがあるが、川内倫子は写真集の編集構成にこだわっている。そのゆえに成立したのは、「見開きページで二枚の写真を見せる方法」である。見る側に見開きページで左右の写真を同時に見せることによって、新たな解読意味が生み出される。

 今回の展覧会、会場に入った時、最初に見た空間は白い廊下である。両側の壁に九枚ずつの写真が線的に飾ってあり、そして廊下の両端に各一枚の写真がある。この部分の写真は全部『Illuminance』という写真集の中で選ばれたものである。会場では、写真と写真との間に多様な呼応の形があるが、写真集を見る時とはまったく異なった感覚である。この空間の作品は、写真を見ていくにつれて、前の写真の意味を次第に変えて行く。例えば、廊下の右側の一枚目の写真は、砂を遊んでいる子供たちの手である。それに対して、二枚目の写真は死んでいる鳥である。ここまで見ると、見る人は一枚目の写真に対する解読が「埋葬」の意味に変えてしまう可能性がある。三枚目の写真は海の中に渦を巻いている模様であり、一枚目と二枚目の写真と同じく寓意的に「葬式」を連想させることができる。そして四枚目の写真は花畑の写真であり、造形的に三枚目の渦巻の写真に似ている。そうした連結的な、ほぼ壁の最後まで続いている(二枚以上離れた写真に呼応する場合もある)。壁での展示は写真集のように「見開きページ」がないので、観客の視線も決して特定の二枚の写真に留まるわけではない。前に進んでいるうちに、写真の意味も徐々に積み重ねられて行く。

この空間の写真構成には、多様な呼応の形で視覚的や意味的な連想の可能性を観客に与える。(画像は「http://quotationmagazine.jp/column/post-1688」から引用)

この空間の写真構成には、多様な呼応の形で視覚的や意味的な連想の可能性を観客に与える。(画像は「http://quotationmagazine.jp/column/post-1688」から引用)

見開きページ様式の対称映像

 廊下を経て黒いのれんを潜ると、目に入るのは投影された二つの大画面があり、それぞれ映像の作品が流されている。2005年から、川内は写真を撮る時、同時に大型ビデオカメラで動画の撮影もする。そして最近はキャノンのデジタルカメラ5Dを使って動画を撮るようになった。このような撮影方法は、自分の撮りたいシーンが明確に分かっていることを示している。ある時は写真のみ、ある時は動画のみ、ある時は両方を同時に撮る。撮る時はどの方法で撮るか、自分の感覚で判断する。この空間の映像作品は、多くの短編映像で構成される。ワンカットは6~10秒間、そして自動的に次のカットに移行する。映像の内容は、川内の写真集に収録された写真を連想できるシーンが多い。映像を撮影する時、常に三脚を使うため、画面の範囲は変化がなくてただ被写体が動いている。まるで「少し動いた川内倫子の写真」のような表現方法である。それに二つの映像が同時に流された形式も、写真集の見開きページの形に似ている。二つの映像に時間差があるため(スタート時間位置が違う)、左右の画面は交互に変化していく。

 川内本人が語っている、写真集、あるいは展覧会(写真展示の部分)の方は、やはりより策略性がある。観客はどのように鑑賞するか、どのような連想ができるか、そういった意図が重要視する。しかし、この映像の作品では、少し自分の予想以外の効果を期待している。この映像を編集する時、前後の順番は考慮されていると思うが、二つの映像が同時に流されるため、すべての時点で左右の画面構成を予測することは不可能になる。この映像の長さは45分(片方は22分ぐらいが、同じの左右の画面構成が出現するのは45分後)、普通の鑑賞時間内は(45分以内)、ほぼ無限な変化があるに等しいだろう。(実際に45分を見終わる観客は少なくない)

 カットは短く、ストーリー性は排除され、そして画面範囲は変化しない。この作品は映画と写真との間にある表現だと筆者は考える。普通の映画なら、カットごとにストーリー上の必要性があり、カットの続きの連続性や合理性を考慮すべきである。この作品は、カットのストーリー性が形成される前に、観客の思考時間を切断する。その結果、様々な意味不明な断片が残り、最終的に川内倫子の見る「視覚上の集合体」となってしまう。その中に現れるのは、無数な視覚呼応の形と、流動的な意味生成だけである。それでも、観客は簡単に川内倫子の映像世界観に吸い込まれるのである。

(画像は「 http://quotationmagazine.jp/column/post-1688」から引用)

(画像は「 http://quotationmagazine.jp/column/post-1688」から引用)

イメージ曼荼羅

 映像の部屋を出ると、最初に見えるのは、一面の壁に三つのフレームがあり、それぞれ20枚のコンタクトシート(ネガ一本分のすべての画面を同サイズで一枚の印画紙に密着焼きしたプリント)が入っている。川内は、大量の写真配列で曼荼羅という概念を示し、限られた視野範囲で小さいな宇宙を表現する。

 前に述べたように、川内は撮影する時、自分の撮りたいシーンが明確に分かっている。このことは川内のコンタクトシートから見ても明らかである。フィルム一本12枚の画面の中に、大体1~2シーンしか撮らない、あるいはすべての画面は同じ位置で撮ったものもある。つまり、「ここには欲しいシーンがある」ということが強く感じられる。川内にとって、多めに撮った写真は失敗なのではなく、使い方次第で新たな可能性がある。川内の写真集によく似たシーンが出てくることも、もともと同じ場所で何枚の写真も撮ったからである。

 (画像は「http://www.cbc-net.com/topic/2012/05/rinko-kawauchi-syabi/」から引用)

 (画像は「http://www.cbc-net.com/topic/2012/05/rinko-kawauchi-syabi/」から引用)

 (画像は「http://quotationmagazine.jp/column/post-1688」から引用)

 (画像は「http://quotationmagazine.jp/column/post-1688」から引用)

多彩で流動的な写真

 この部屋のほかの三面の壁に展示されたのは、川内が『Illuminance』の作品を撮っていた時に、ほかのカメラを使って撮ったものである。それゆえ正方形の写真と2:3の写真が含まれている。黒背景やフラッシュ、あるいは露出オーバーの写真が混ざり合い、ほかの部屋の写真と比較すると、視覚的なコントラストは強い。そして全体写真の表現はもっと色の変化を強調し、この作品に『Iridescence』(玉虫色)と名付けたのである。

 壁の展示は、さまざまのサイズの写真が一緒に並んでいる。主に三種類のサイズがあり、およそ四倍の変化率(異なるサイズの間の比例変化関係)で変化している。そして写真の間隔の変化を巧妙にコントロールし、壁の上で流れているように見える。この展示の表現方法は、写真の寓意的な連想より、展示の形式そのものが注目されやすい。川内の今迄のスタイルを強調するなら、この形式で展示しなくてもいいのかもしれない。しかし、この形式は展覧会全体の中で展示の変化性を繋ぐ効果もあると筆者は考える。

 (画像は「http://www.museum-cafe.com/report/7206.html」から引用)

 (画像は「http://www.museum-cafe.com/report/7206.html」から引用)

 (画像は「http://syabi.com/contents/extra/kawauchi.html」から引用)

 (画像は「http://syabi.com/contents/extra/kawauchi.html」から引用)

あめつち

 最初の廊下から、二つの部屋を通過して最後に辿り着いたのは、展覧会の中で最も広く、神殿の中心にある祭壇のような空間である。

 ここの作品は、主に阿蘇の野焼きと神社の儀礼の写真である。同じ被写体を作品にするという概念は、川内にしては珍しい手法である。川内は大判カメラを使ってこの作品を撮っていた。その理由は、被写体自体の存在感が大きすぎるから、この方法しか被写体と対峙できないし、同時に写真家の敬意を表す行為である。川内が語っている、ローライフレックスのカメラで撮影する時は、息を暫く止める感じのようである。それに対して、大判カメラは「空気をゆっくり吸い込む」のような感じであるという。

 この部屋の両側の壁に、壁とほぼ同じのサイズの大画面映像が流されている。映像の内容は、一つは阿蘇の野焼きの山全体の変化過程であり、もう一つは鳥の群れが海の上で飛んでいる軌跡の変化過程である。観客がこの大画面を見る時、川内の撮影の時に似た距離感を再現できる。山が燃えることと鳥の群れが飛ぶこと、それぞれ人為事象と自然現象を代表するものであり、観客に対して、同じく難解かつ神秘的な印象を与える。人は全体像が把握できない壮大な自然を恐れながらも崇敬し、同時に自分自身の「今現在ここにいる」ということを初めて認識できるのではないかと思わせる。

 (画像は「http://www.museum-cafe.com/report/7206.html」から引用)

 (画像は「http://www.museum-cafe.com/report/7206.html」から引用)

 (画像は「http://www.museum-cafe.com/report/7206.html」から引用)

 (画像は「http://www.museum-cafe.com/report/7206.html」から引用)

展覧会全体についての感想

 今回の展覧会では、様々の方面で非常に巧妙に構成されていると筆者は考える。

1、作品サイズ:大→さらに大画面→極小→大/小→最大。

 最初は大きいサイズの写真から、二番目の部屋のもっと大きいサイズの映像を経て、三番目の部屋のコンタクトシート(極小のサイズ)の作品があり、そして部屋に大小の写真を組み合わせて展示する。最後の最も広い部屋に、写真と映像を同時に展示し、サイズ的にも最大級になる。各々の部屋は作品のサイズと展示方法で区分され、それぞれの独自性がありながら展覧会全体の視覚的な変化性を作り出すのである。

2、空間特性:明るい→暗い→明るい→暗い(→明るい)

 最初の廊下は白くて明るく、神聖なイメージがある。写真の内容には亡くなり、祈り、導きなどの寓意が連想できる。二番目の部屋は暗い空間であり、混沌かつ発散的な映像表現である。その後、空間は明るくなり、大量の写真と軽快な色変化という表現に移行する。最後はまた暗い空間になり、神秘感の満ちる儀式的な空間で締めくくる。そして会場を出る時、黒いドレープカーテンを潜って明るくなり、現実に戻ることが宣告されるのようである。これも作者の意図だと筆者は考える。(普段その位置には自動ドアがあり、この展覧会のために仕様を変更した。)

3、展示形式:靜→動→靜→靜/動。

 最初の廊下には写真のみ、二番目の部屋には映像のみ、三番目の部屋には写真のみ、最後は写真と映像を一緒に展示する。展覧会の平面図を見たら、左と右を区別することができる。前半は以前の作品(主に『Illuminance』の作品)であり、展示の順番はまず写真、次には映像、最後はコンタクトシートと写真がある。見ていくうちに、既視感を強く感じられ、写真の内容は再出現のような感じがするが、どれも微妙に違っている。展覧会を見る時、視覚的な刺激は常に変化し、川内倫子の写真集のように、強い視覚的なリズムが表している。

 『うたたね』から『Illuminance』にかけて、すでに十年の時間を超えた。「川内倫子=正方形写真」という考えが当たり前となった今、川内は映像と大判カメラの創作手法に変更し、作家の「変えたい」意識が強く感じられる。多くの写真家は生涯にわたって幾つの転換期が現れる。それは単に表現のスタイルのことのみならず、写真家自身の人生観と哲学的な思考のことにも関わるのである。次の段階に川内はどのような表現を表すのか、今回の展覧会を通して、少し輪郭が見えてくるだろう。

 

展覧会ホームページ:http://www.syabi.com/contents/exhibition/topic-1593.html

参考資料:
川内倫子(2012)『照度 あめつち 影を見る』青幻舍